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金井の由来


 3つの長い丘にはさまれて2つの谷戸がある。2つの谷戸に1本ずつ流れと道が通り、古い集落はその周辺に残ってかつては農村の名残をとどめていた。北側の流れが金井川、南は木倉川。 住宅造成により、4,000年ほど前の獣の落とし穴が金井の高台の丘陵地に多く見つかり、焼け土や炭がその周りに見つかっており、そのなだらかな丘陵地に竪穴式住居跡が数多く見つかっているように、川に沿った谷部の低地と、丘陵部に見られる平坦面「段丘地帯」が畑作、稲作どちらにも適する絶好の段丘と谷から成り、大きな意義を持っていた。いわばこの地形そのものが大昔から農耕地として決定的要素を備えていたのである。
丘あり、谷あり、流れあり、四季折々の景観が鹿や猪を追って狩猟に従事していた当時から諸条件が備わっていたのである。
 稲作文化が広まっていくにつれ、人々は鶴見川の下流へと移り住んでいったと考えられるが、日本が国家を形成していくまでの間かなり長い空白がある。開闢の年代は伝わっていないが、
畠山豊町田市博物館員は「柳田国男集の中の『炭焼小五郎が事』に、江戸時代中ごろまでは農具、ナベ、カマを作る職人集団が炭焼きの生産地を求めて農村を歩き、しばらく仮住まいをして鉄を鋳た、という意味の一文がある。この一帯もかつては農家が副業に炭を焼いていて、薪炭が豊富だったために、そこへ鋳造集団が来たと考えられる」また、「鉄を焼いて鍛えるとき剥がれて落ちるかすがみつかれば裏付けられるが・・・」と語る。
 鋳に井をあて、「
金井になったのだろうか。
 2本の道とは別に、全く忘れ去られた一筋の旧街道がある。市博物館近くから大ビャクを越え、鎮守の八幡神社前を通り、やがて金井川にぶつかる形の青山街道だ。その幅から九尺道、またの名をアユの道とも呼ばれた。相模川のアユをかごに、汗をふきふき江戸の将軍家に走り届けた産地直送便が通った道だ。江戸が見渡せる二ツ塚で相模の飛脚と江戸からの飛脚(商人)がここで落ち合ったのだと言われている。(江戸へ十里の位置に金井がある)
 その道が終わる付近の台地に、昭和39年に市指定文化財になった代官屋敷がある。名主が幕末は代官も努めたという。


〔参考文献〕
 多摩の地名〈朝日文庫より〉  鶴川村誌〈鶴川村役場〉

金井町内会のシンボルマーク



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